石灰を含んだ白い砂漠が

 いつか見た儚い氷の結晶を瞳に魅せる




HILL




 目が覚めてからは、ただ時間が流れていくのを眺めているだけのような、そんな朧げな感覚でしかなく。
 肌を焼く暑さは苦しかったけれど、結局そんなものは、あの男の腕の中にいる間は感じもせず。
 命令があれば動き。ただそのままに血に塗れ。欲されれば腕に引き寄せられ。
 回りの人間が愚にもつかない会話を交わすことすら意味を解せず不可思議に見守る。
 言葉はただイエスかノーか。それとも、報告するためだけに存在する明確なプログラミング言語。無駄話など意味がなく、異議もない。
 身体も成長などしないまま、周囲が変わり行くのを無言のまま見守り、ただその中の流れに身を任せていただけだったのにも関わらず。
 あの日見つけてしまった、あの影に出会ってから。
 あの日、心を初めて騒がせたあの姿を見た瞬間から。
 見守るだけの、そんな簡単なことが出来なくなってしまった。



 この灼熱の国にあって、異国にいるような服装をしたあの銀の髪。自分の姿を見つけて眉根を寄せ、苦しげな表情すら浮かべながら叫んだ陽に焼けていないその肌。
 その隣に佇み、物言わず自分を見つめてくる緋色の瞳と鋼色の髪の少年のその視線すらなぜか脳裏を酷く焼いて。
 自分には所詮備えつけられなかったのだろうと思い込んでいた胸の奥が騒ぎ出すような、奇妙な動揺。
 自分の身体に腕を回す男に対し口汚く罵声と非難を浴びせかけるその声を聞いて、水気を帯びてくる瞳を感じ。
 今感じているこの動揺こそが、自らをただの人型に貶めていた、失くしていた感情なのだと初めて知る。



「まさかここまで追ってくるような愚か者だとは思っていませんでしたよ、ボリス・クズネツォーフ。せっかくまたあの懐かしの故郷に生まれついたと言うのに、物資補給の目的以外入国の許可が取れないこの国に密航してくるとは。……まったく、昔私が育ててあげた貴方とは思えない諦めの悪さですね。もっとも、この反発意識がベガを立ち上げたときにすでに垣間見せてはくれていましたがね?……しかし、そろそろ気付いてもいい頃でしょう。引き寄せた?心外ですよ、その言葉は。彼の方から私の呼びかけに応えたんです。私はもう一人の子を呼んだつもりだったのですがね。おかげで、その子は随分久しぶりに逃げ出してくれましたよ。……私の目的を潰えさせてくれたんです。これくらいの懺悔は当然でしょう。なぁに、これはただ単に、彼の心の奥底に未だ私に依存する気持ちが残っていた。ただそれだけのことが原因ですよ。だから彼も、これを嫌悪する対象としては感じていない。むしろ、私の傍に戻ってこられたことを喜ばしく思っているのかもしれませんよ?もっとも、貴方にはそれこそが気に入らないのかもしれませんが」
 喉で笑うその声が耳朶に触れる。不快だと感じたことはない。けれど、その不快という感情が分からない自分は、ただゾクリと駆け抜ける背筋の感覚に身を震わせるだけ。
 それなのに、一瞬泣き出しそうに見えた目の前の姿に、胸の奥が痛んだ気がした。
「…………ユーリ」
 小さく名前を呼ばれる。今日まで聞いたことのないはずの、ほんの少し擦れ気味の高い声。
 思わず開きかけた自らの唇から、なにを言葉にしようとしたのかは分からないけれど。
「しかし、ここまで入って来られたのは意外でしたよ。セキュリティ上は何の問題もなかったはずなのですがね……。まぁいい。どちらにしろ、貴方には用がないんですよ、ボリス。とはいえ、この施設のことを外で話されても困るのでね。……なにせ、ここは周囲にはかつての大財閥、火渡グループの最後の事業地、そして慈善施設で通っている。その世間体を通すためにカイ君はここに必要不可欠ではあるのですが、貴方はただの密航者。いわば犯罪者だ。その上、おそらくは火渡家で最後の純血な後継者になるであろうカイ君をかどわかし、誘拐しようとしたとなれば……処分を下したとて差し支えありませんからね」
 笑みを含んだ語調が、ゆっくりと自分の背中を押し出す。
 処分の二文字は、処刑と同意義。押し出すその掌は、命令と同価値。

 けれど自分は、それきり動けない。

「ヴォルコフ、様」
 動けない。動かない。動きたくなど、ない。
 動いてしまえばするべき事をし終えるまで止まれない。


 きっとこの両手が、隙もなく蘇芳に染まり上がるまで。


 その前で崩れ落ちる姿を頭に描いただけで、一切の動きが拒否される。
 覚えもない、その胸にナイフを突き立てた映像が瞳に映り込んだ。
「どうしたんです、ユーラ」
 耳元で囁かれる擦れた呼び声に身を震わせる。
 交わりの時だけ使われるはずのその呼び方は、ただ使役されるだけの人形としてのコードネーム。
「躊躇しているとでも言うつもりなのですか。感情も持たない、失敗作の貴方が」
 そして、唇を塞がれ、音を奪われる。
 瞬間、雨が降り注いできたのかと。そう感じ。
「ユーリ!!」
「これはこれは。感情も持たないと言ったばかりなのに。……まさか、涙とは」
 その一言で、ようやくこの水滴が自分の眼孔から流れ出たものだと気付き、騒がしかっただけの胸の奥が締め付けられるように痛み、呼吸を困難にしていることに気付く。
 開放された口元が、未だ止まらない水の軌跡に濡れながら、まるで空気を求める魚のように開閉を繰り返し、声にならない言葉を紡いだ。

 音も聞こえない、三文字の言葉。

 記憶もない遥か昔、呼び慣れていたはずの名前。
 見返ったその姿は、自分を抱き寄せたままの男を睨みつけたまま怒りに震えていた。
「ユーリ泣かせたな、おっさん」
 新緑色の瞳に赤みが差す。食い縛った口元からはほんの少し血が滲み、静まり返った中で嫌な音を響かせた。
「そのようですね。感情を入れ忘れてしまった失敗作かとばかり思っていましたが……。君がここに現れるという不確定要素が加わったことで、なぜか今まで押し込められていた感情が発露してきたようですね。君がここに来たのも、厄介なことばかりではなかったようだ。良かったじゃありませんか。君のような使い物にならなくなった人間でも、愛する人間の役に立つことが出来たのだから」
「てめぇ……!!」
「ボリス」
 飛び出そうとするその身体を、もう一人の少年が腕一本で引き止める。怒りのあまり泣き出しそうな姿と言葉を受け流し、互いに何言かの言葉を交わした後、振り返ってニヤリと笑んだ。
「……わりぃな、おっさん。アンタぶっ飛ばすのはもうちょい後だ。今は、この不良御曹司掻っ攫って逃げさせてもらうことにするわ」
「誰が不良御曹司だ。……まぁ、こいつの言ったとおりでな。貴様の挑発に乗り、ここで自滅するわけにはいかんのだ。もっとも、ユーリは必ず取り返す。この馬鹿がどちらにしろ奪いに来るだろう。……貴様に怯えて逃げるのだ、などと都合のいい解釈だけはしないでもらいたいものだな」
 言葉の終わりを待たず、目の前に炎の壁と、それを切り裂きカマイタチが現れる。前衛の者は炎に焼かれ、その後ろにいた者は真空の刃で薙ぎ払われた。
 その様子に、隣に佇む男は面白くもなさそうに鼻白んで嘲笑にも似た表情を浮かべ。
 その向こう側から、もう離れてしまったのだろう遠い声が自分を呼んだ。
「ユーリ!絶対、絶対!!迎えに来るから!ずっと昔のこの馬鹿御曹司みてぇに、お前のこと、俺は絶対見捨てたりしないかイッテェ!!」
「誰が見捨てた!!アレは黒朱雀に記憶を食われて忘れてしまっていただけだろう!」
「一緒じゃん!」
「どこがだ!!」
 追っ手が来ているだろうに叫びながら遠ざかっていくその声を聞きながら、知らず唇が吊り上った仕草を、笑みだと知ったのはそれから随分と経った頃だった。



 感情が発露を見せ、一人で思考することが出来るようになってから丁度一ヶ月ほどが過ぎた頃。沖縄の施設本部から本州に渡り、今ではもうちゃんと幼い頃の思い出すら思い出せるあの二人の処刑命令に従事していた小さな外ドーム施設で、パニックが起きた。
 突然施設のマシンがクラッシュし、今まで集めていたデータがすべてデリートされ、施設自体の制御がつかなくなる事態が発生。原因は不明だが、かろうじて生き残った屑データの中に一瞬映りこんだ赤い人影のようなものから、あるドームで使われているネットナビと言う有人格プログラムではないかと言う意見が多数を占めた。
 けれど、そんなことは問題ではなく。
 腕に取り付けられていた発信機を引き剥がし、赤外線が張り巡らされていたはずの廊下を抜け、監視カメラの前を通りカード開閉だった扉を手動でスライドさせて外へ出る。
 紫色の空は沖縄にいた頃よりさらにその色を濃くして見えて、貝殻が崩れた砂浜よりもコンクリートの石灰分が白さを際立たせる砂漠は、暑さを訴える太陽さえ除いてしまえば、まるでいつかの雪の国のようで。
「待ってるだけなんて、性に合わないんだ。ボリス」
 迎えなんて待っていられるほど、もう大人しい人形じゃない。
 崩れ落ちたビルの陰に、ひっそりと佇み小型のマシンに話しかける姿を見つける。青いバンダナを右腕に巻きつけた、不思議な髪色をした同じ外見年齢程度の少年だった。
「ブルース、もういい。依頼内容は完了だ」
『了解しました、炎山様』
「……お前か、クラッキングを仕掛けた犯人は」
「……っっ!」
 声をかけると、途端身構え睨みつけてくる。雰囲気はどことなく品を漂わせ、その目付きもなぜか以前の幼馴染を思い出させた。
「誤解するな。お前を捕らえに来たわけじゃない。むしろその逆と言ってもいいだろう。……お前のおかげで、俺はあの場所から逃げ出せた。そのついでと言っては何だが……。どうせここから離れるなら、俺も一緒に連れて行け。探している人間がいる。足手まといにはならない」
「……唐突だな。正規の仕事として引き受けたものだったなら、その誘いは断ってるところだ。しかし……。俺も、別に仕事などこれと言って固定したものをしているわけじゃない。探し人だと言ったな。……いいだろう。俺も目的としては同じだ。どちらかが相手を見つけ出すまで、道連れになってやってもいい」
『炎山様!!』
「心配するなブルース。悪い人間ではなさそうだ」
 そう言ってマシンに向かって笑いかける姿は随分と奇怪に映ったが、まったく気にしていないところを見るとこの少年のいたドームではこの光景は日常であるらしい。
「とりあえず名を聞こうか。その外見からして、どうやら生まれついての日本人ではないようだが」
「名か。生まれについては、今となってはよく分からないがな。……ユーリ・イヴァーノフだ。少し、特殊な力を使う」
「ロシア系の名だな。愛称は確か……いや。呼ばないほうが良さそうか。もとより、必要もなさそうだな。俺は伊集院炎山という。PETの中にいるのは俺のネットナビ、ブルースだ。俺達のいたドーム以外では珍しいらしいが、これから嫌と言うほど特徴を目にすることになるだろう。……付き合いの長さがどうなるかは分からんが、互いに足手まといにならんようにな」
「もちろん」
 そして、視線だけで笑み合って。


 白い砂漠に雨が降るとき、視界の中で幻覚に変わる。
 低く立ち込めた雲の下、白い大地に降り注ぐもの。
 小さな氷の結晶が降り注ぐその中で、ただ一人自分を待って笑む姿。





 いつか、懐かしいあの場所へ。